2014年10月7日火曜日

396)言葉じゃない、だけど言葉が大事

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の真道満喜(しんどうまき)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。
今日は、「言葉じゃない、だけど言葉が大事」について書きます。
言葉じゃない、例えば笑顔だったり、温もりだったり、抱擁だったり、そばにいるだけ、ただ聞いてくれるだけでいい。
そんな体験が少なからずあることでしょう。
どんなに言葉を尽くしても伝えられない、表現できないことがある。
天真爛漫な子どもの笑顔に心洗われたり、癒されたりすることもある。
これは語ることで明らかにすることとは真逆の方向
語らないでただ笑顔に向き合うことで、語る以上のことをそこに見い出す。
心の中から、身体の中から勝手に湧き上がってくる何かがある。
それらをありのままに感じることを「実感」「味わう」という。
語ることは味わうことを希薄にする傾向がある。
しかし、語ることがないとその実感を意識することが希薄になる。
味わっている、実感している時、そのものと一体化しているという。
一体化している時は言葉にできない。
例えば、喜びの最中にいる時、人は言葉を失う。
悲しみの最中にいる時、悲しいという言葉は出てこない。
もし出るとしたら、叫びや慟哭。あるいは身体を使っての行動化となる。

逆に言葉にできる時、人はそのものとの間には距離があるといえる。
言葉にすることに終始すると、味気ないものとなる。
実感を無視し続けると、いつの間にかそれらを感じること、味わうこともなくしてしまう。
その先は空虚。
このように語ることと味わうことは逆方向に向いているようで、実は断ち切れないものでもある。人が人として生きる上で、実感を時には言葉で語ることでより深くし、味わうことで語る以上のことを実感する。語ることと味わうことは直線状にあるのではなく、あるループを描きながら互いに交差しているようだ。 
ゆえに、「言葉じゃない、だけど言葉は大事」となる。
言葉で語りつつ、一方で味わう。
この両方のバランスをとりながら日々を暮したなら、その先には一体何が見えてくるでしょうか。
シニフィアン研究所 真道満喜 http://signifiant-lab.com/
Twitter https://twitter.com/sindoumaki