2013年10月5日土曜日

349)時間と空間

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題となることでしょう。
 今日は、「時間と空間」 について考えてみます。

人は時間的・空間的存在だといわれます。
時間的存在であるとは、歴史的存在であること。
自分の人生という歴史がそこには存在している。
昨日までと今日、そして明日。これらが時間経過と共に繋がっていて、記憶としても連続したものだと思えること。ごく当たり前のことのように思っているかもしれないけれど、少し考えてみるとどうでしょう。

今日までの記憶が繋がって思い出せるかどうか。
昨日のことなら思い出せるかもしれないけれど、一週間前はどうだろう。一か月前は。一年前は。
このように考えてみると、どこかで繋がっていない、思い出せない記憶にぶち当たる。
歴史的、時間的に繋がっていることは、間違いないはずなのに、、、、
通常はこのようなことは、問いかけもしないし、疑いなどしないことでしょう。
時計、カレンダー、写真、DVDなどの記憶媒体によって確かめられもするから安心している。

空間に対してはどうでしょう。
私たちは自分の肉体も含め、平面的よりも立体的な世界に生きている。
だから空間的世界に生きていると思っている。
キャンバスに描かれた絵画を見ても、立体的な世界をその中に想像できる。
しかし、よく考えてみると、不思議な気もしてきます。
いつ、時間概念や空間概念を身に付け、疑うこともなく生活しているのでしょう。

マーラ―という人によると、
これらの感覚が形成されるのは、生後22か月~36か月の間だとされています。
その時期になると、「あとでね」とか「また明日」を理解するようになるという。
生まれてから数年をかけてこれらの概念を理解できるようになってくるということになります。

当たり前のことのように考えているかもしれないけれど、
時として「心の時計が止まっている」とか「まるで昨日のことのように思える」「壁が迫ってきて窮屈に感じる」「空気に押しつぶされそうになる」などと言うことがあります。
もちろん、時計が止まっているわけでも、空間が狭くなって
いるわけでもありません。
その時、その人にとってはそのように感じられるということです。
このような経験は誰でも少なからずしていることでしょう。
時計が間違いなく時を刻んでいても、建物が通常動くことはないとしても、
人が感じる時間や空間は容易に変化し得るのです。
それほど危うい世界に生きているといえるのかもしれません。

今ここに居る、今この時を生きているとの意識をどれだけ持っているでしょうか。
日々の目の前の役目や役割に翻弄されているとはいえないでしょうか。
それは受身的な生き方のようにも思える。
自ら能動的にしているつもりかもしれないけれど、実は「仕方ないから」「しなければいけないから」との急き立てのようなものに追いかけられてはいるのでは?
自分がしたいことをどれだけしているでしょうか。
このように問いかけてみた時、時間的・空間的存在である自分を見失っているかもしれないことに気づくのではないでしょうか。

思い出せない記憶が多すぎるとき、それは「精神の骨粗鬆症」とでも言えるように思います。
時間的・空間的存在である人生という歴史をどれだけ充実していると思っているでしょうか。
充実しているとは、中身が詰まっていると言い換えることもできるでしょう。
それは、それまでの自分の歴史を豊かなものとして記憶していることでもあると思うのです。
消してしまいたいと思いながら生きてきた時間・空間と、忘れたくないと記憶してきた時間・空間を考えた時、内容はともかく、どちらが充実していると思えるかはいうまでもないことでしょう。

記憶と記憶の隙間は誰にでもあること。
その隙間を埋めたいと願うなら、精神分析という対話療法はおあつらえ向きだと思います。
何らかの理由によって、自分の心から追い出したり、深く埋めてしまった記憶を、自分主導で緩やかに思い起こす方法だからです。
知りたい、埋めたいとの気持ちを諦めない限り、時間的・空間的存在であることを理解し、その内容にかかわらず、きっと充実感を味わえると思います。

時間的・空間的・歴史的存在である私たち人間は、ややもすると日々の生活に追い立てられ、急き立てられ、そのことを忘れてしまっているのかもしれません。
今回はこのようなことを考えてみたかったのです。

シニフィアン研究所のHPも参照ください。 http://signifiant-lab.com/

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